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意味に逃げないということ

浅田真央が引退した。彼女の言葉づかいは最後の最後まで素朴で、とても率直だった。その引退会見で行われたやりとりをみて、友達の一人が「なんてバカな質問をする記者なんだ!」と憤っていた。

まあ確かにバカな質問かもしれないんだけど、ぼくとしては全否定する気にはなれなかった。

そもそも「送り出す質問」ってなんなんだろうと思った。さらには、こうした引退表明も含めて、アスリートがメディア(を通じて世間)とコミュニケーションをとる動機や理由ってなんなんだろうと思った。

言葉を選ばずに言えば、アマチュアアスリートなら特にそうだけれど、一個人として必死に努力して競技に取り組んでいるだけなのに、何の関係もない赤の他人たちから、なんでああだこうだと言われなければならないのか。

ファンから力をもらうってこともそりゃああるだろうし、公人としての責務とかって話も理屈では分からないでもないのだけれど、それだけでは納得できない何かがある。

そんなことを考えてすごくモヤモヤした気持ちにさせられていたら、SNSのTLに為末大さんのコラムが流れてきて、なんだかすごくスッキリさせてもらったのだった。

スポーツ選手に限らず、たいていの人は好きとか楽しいとかっていう内的な動機で何かを始める。そこから、昨日できなかったことが今日できるようになることに喜びを感じ、訓練を苦とも思わずに重ねて、上達していく。

でもある時から、そのことに価値があると見出した周りの人間がああだこうだと口を出し始め、いつしかそのこと自体を楽しめなくなっている自分が残る。みたいなことが世の中にはありふれている気がする。

オリンピックとかは特にそうで。「国民の期待を背負って」とか、「感動と夢をありがとう」とかって、一体なんなんだろう。

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全然関係のない話のように聞こえるかもしれないけれど、ぼくはフリーランスとして働く上で、仕事の依頼を受けるかどうかは、「何のためにそれをやるのか」という視点で決める(エラそうですみません)。

依頼してきた会社は、なぜそのプロジェクトをやるのか。ぼくがそれを手伝うことの意味は何か。その結果、世の中がよくなることにどう寄与するのか……

でも先日、ある取材の現場で「意味に逃げるな」という話をされて、ハッとさせられたんだよね。

新卒として会社に入ったばかりの若い人とかは、特にそうだと思うんだけど、自分が任せられる仕事が、必ずしも自分のやりたいことと合致しているとは限らない。往々にして、すごく退屈な単純作業を課せられたりする。

そんな時、人はこう思うはずだ。「これをやることに何の意味があるのか?」と。

でも多くの場合、自分のやりたいことや会社のビジョンから、目の前のタスクまでをブレイクダウンする作業は非常に難しい。自分ではもちろん、上司だってそれを完璧にできることばかりではないだろう。しかしそこがうまくいかないことに対して腐ったり、途中で投げ出したりすると、その人の成長は残念ながら止まってしまう。

成長する人は、そこで意味に逃げないんだと思う。目の前のタスクをいかに楽しめるかを考え、その中での小さな改善のサイクルを設定する。言い方を変えるなら、どんなにつまらなそうに見える仕事にもちゃんと没頭できる。だから成長する(四角大輔さんはそれを指してアーティストモードと呼んでいた)。

そうしてなにがしかの一流(どこまで行ったら一流かはさておき)になった時に初めて、自分は社会に対してどんな価値を提供するのかと、意味を考える資格を得るのだと思う。

翻ってぼくはどうだろうか。間違っても「もうなにがしかの一流です」なんて言えない。もっと成長したいと思うなら、意味に逃げずに、仕事を選ばずに、まだまだがむしゃらに働くべきなのかもしれないな。

奄美大島で「つながらないことの価値」に思いを馳せる

仕事の合間を縫って家族3人で奄美大島へ飛んできた。生後半年の息子にとっては初めての遠出だ。

飛行機に乗っても暴れないのか、見知らぬ土地でもちゃんと寝付けるのか、そんな彼を連れてでもぼくら夫婦は旅を楽しめるのかなどなど、いろんな意味で実験であり冒険だったのだけれど、そうした心配はすべて杞憂に終わった。

お母さんに抱えられたままカヌーでくぐったマングローブの樹林を彼が覚えているということはなくても、水上でギャン泣きした愛おしい姿はしっかりカメラに収めたから大丈夫!

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Airbnbで借りたプライベートビーチ付きの古民家に泊まり、朝夕は自炊してのんびり過ごした。

個人的にはビーチへと続く裏庭の巨大なガジュマルがお気に入り。裸足で砂浜を歩いて、まとわりついた砂を蛇口の水で洗い落とす感覚になつかしさを感じた。海の水はとにかく澄んでいて、ぼんやりと波紋を眺めているだけで穏やかな気持ちになれた。

Airbnbは国内外でけっこうな頻度で使っていて、なんとなくで選んでいるわりに、毎回すごく満足度の高い体験をさせてもらっている。

今回は家族水入らずの時間という選択をしたけれど、ホストとの交流という意味でも過去にはいろいろあった。バルセロナの一等地に住むアルゼンチン人ホストのAndresと夜の街へ繰り出し、地球の裏側でリベルタドーレスを戦うボカ・ジュニアーズを夜通し応援したの、最高だったなー。

いわゆるシェアリングエコノミーの恩恵には、他にもかなりあずかっている方だと思う。Twitterでの発信がありがたい出会いにつながって、そこからいただいたどデカい仕事は現在も進行中。

ジェフ・ジャービスの『パブリック』をあらためて持ち出すまでもなく、自らを公共の場へとさらけ出すことで得られるメリットや、共有の時代を支える「情は人のためならず」的な破壊力はもう、十分に身をもって体感し、腹落ちしているのだ。

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が、しかし。

人と「つながることの価値」は実感しつつも、ビジネスネットワークだオープンイノベーションだと世の中の多くの人がとにかくつながろうとすればするほど、ぼくは「つながらないことの価値」に注目しないではいられない。

いや、最終的にはつながらなければ価値は生まれないんだけれども、接続しっぱなしというのはマズいという気がしている。どうしたって均質化するし、そうするとその人ならではのものというものはなくなって、戦うことも、楽しませることも、世の中に貢献することもできなくなる。その人がその人としてあることの意味がなくなってしまう。

これはぼくの持論なのだけれど、思春期に友達の輪に加われなかったような子供は、それはそれは生きづらさを感じているはずだけれど、なんとか乗り越えればだいたい面白い感じの大人に仕上がる。一人っ子やオタクや自閉症の子もそんな感じだろう。

逆に兄弟や友人に恵まれて育った子は、常識的でコミュニケーション能力に優れた大人になるから、さぞ生きやすいだろうけれどもスペシャルにはなりにくい。

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ガラパゴス上等。人はもっと孤独な時間を過ごさなきゃいけないんだと思う。

いまの日本企業は江戸時代の鎖国状態のようなものだから、イノベーションのためには出島を作らないといけないと言う人がいた。それは本当に大事なことなんだろうと思うのだけれど、江戸時代の出島に価値があったというのは、その時、日本が鎖国していたからこそじゃないかな。

10代で初めてタイを訪れた時、ぼくはなんてクレイジーな国なんだとめちゃくちゃ興奮させられた。タイへはここ数年間でも何回か行っているけれど、あの時感じたようなアホみたいな感動はもうない。それはぼくがすでにタイを経験しているから、ぼくが歳をとったからというだけではないだろう。

最近ではバンコクに着いたら、すぐに長距離バスに乗り換える。目的地は「いったい何があるというんですか」でおなじみのラオスメコンの中洲にある小さな島へ渡って、何週間も滞在するんだ。

メコンのゆったりとした流れを眺めながら、日本から持っていった本をひたすら読む。日常との接続を絶ってインプットに耽るこの時間が、ぼくにとっては何物にも替えがたい。

美味い酒は何年も寝かせられて、初めて誰かの口に入る。接続と非接続、鎖国と開国を繰り返して、ぼくはこれからも生きていく。

旅と宗教とLとVR

うまくいかない状況を変える方法は大きく分けると2つしかない。1つは自分が変わること。もう1つは自分を取り巻く環境の側を変えることだ。

たとえば、なにかそれまでとやり方を変えるとか、新しいスキルを身につけてできることを増やすというのは前者だし、転職して環境を変えるとか、選挙でこれと思う候補者に投票して社会変革を託すというのは後者に含まれる。

多くの場合、環境を変えるのには大きなパワーが必要だ。国や社会が「こうなればうまくいく」というビジョンを持っていたとしても、それを実現するのにはとても時間がかかるし、骨が折れる。

自分を変えるのもとても勇気がいるので簡単ではないけれど、社会や国を動かすのと比べればずっと制御がしやすいし、時間もかからない。なにより「自分次第」って思えるのがデカい。

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自分が変われば世界が変わる、というのは比喩でもなんでもない、本当のことだ。たとえば5年前に読んだ本をいまあらためて読むと、まったく違う本として読むことができる。これはもちろん、本の内容が書き換えられたわけではない。

ぼく自身はこれまでそれほど接点があったわけではないのだけれど、宗教がやってきたことというのも、おそらくそういうことなのだろうな、と思う。

生きづらさから逃れるための方法が環境の側を変えることしかないとすると、多くの人にとってそれは不可能に近い。そうではなくて、自分が世界を眺める方法を変えることで、世界の見え方を変える。そのための方法を提示しているのが宗教なのだろう、と。

これは取材したわけでも調べたわけでもないから、完全にぼくの妄想でしかないのだけれど、あのオウム真理教にしたって、やろうとしていたのはそういうことだったのではないかと思う。自分たちの側が変わることで、世界の見え方を変革しようとした。

ただ、その過程で(必然か偶然かは知らないけれども)死人が出た。それでもなお自分たちの方法論に説得力をもたせるために、それを隠蔽しようとした。そこから嘘を嘘で上塗りするように、歯車が狂っていったのではないか。

そして行き着くところまで行くと、もはや自分たちが変わることで世界の見え方を変えるというのには限界が出てくる。すると残されるのは、再び社会の側を変えることだけだ。それが選挙への出馬であり、テロであった。ぼくはそう考えている。

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これはすべて妄想だし、そもそもぼくにとって宗教は人ごとだ。でも、宗教を科学に置き換えれば、とたんにそれは人ごとじゃなくなる。

科学的に、論理的に正しいということでしか物事が捉えられなくなっている自分を感じる。科学的で論理的なだけでは見えない世界があるのかもしれないのに。お釈迦さまの手のひらの上の孫悟空のように、そのことに気づけないでいる気がする。

自分の側が変わるということが現実的な選択肢に入る前段階には、自分がそれまで依拠していたものの見方が絶対的なものじゃないってことを認識する必要があるだろう。

ぼくがVR(仮想現実)なりSR(代替現実)なりの技術が好きだというのはそこだ。この技術を使って映像世界に没入することで、人はそれまで見ていたのとはまったく違う視点に立って物事を眺めることができる。

人の立場に立って物事を見るというのは言うほど簡単なことじゃないけれど、SRを使えば本当にそれを体験できる。

その点では、ぼくにとっての旅というのはSRそのものだ。

自分とはぜんぜん違う価値観にしたがって生きている現地の人。自分とはぜんぜん違う文脈でその場所を訪れた旅人たち。そういう人との出会いが、自分がそれまで後生大事に守ってきたものの脆さや儚さを教えてくれる。

物書きという仕事においても、そうありたいと思っている。それまで自分が持っていた価値観がガラガラと音を立てて崩れていく、そんな瞬間に一つでも多く出会いたいし、そういう文章を書いていきたいと思う。